代行

経歴 幼少期から1997-1998シーズンまで 横浜市鶴見区で日本航空国際線パイロットの父と、元客室乗務員の母の間に生まれる。村主家は18代続く旧家であり、先祖は酒造職人だった。3歳から5歳までをアメリカのアラスカ州アンカレッジで過ごす。この時代、スケートをはじめとするウィンタースポーツに親しんだ経験が競技生活の原点といえる。高速バス TDL 6歳でスケートを始める。1992年、小学6年生で全日本ジュニア選手権に初めて出場し、19位。1994年には初めての国際大会となるガルデナスプリング杯(イタリア)で7位となる。1995年、全日本ジュニア選手権で2位となり、4度目の出場にして初の表彰台に上がる。続く世界ジュニア選手権でも初出場ながら4位に入賞し、その頭角を現し始める。高速バス 横浜 1996-1997シーズン、全日本ジュニア選手権、世界ジュニア選手権でそれぞれ前季に続き2位、4位に入賞。全日本選手権ではショート3位からフリーで逆転優勝を飾り、2度目の出場で16歳にして全日本女王となる。シニアの世界選手権代表に初選出されたが18位にとどまった。10位以内に入れなかったため、長野オリンピックの日本女子シングル代表枠はわずか1つとなった。 1997-1998シーズン、長野オリンピックと世界選手権の出場権がかかった全日本選手権では、ショートプログラムで首位に立つも、フリースケーティングのジャンプで転倒してしまい総合2位に終わる。ショート2位から逆転優勝した荒川静香が両大会の代表に選出され、村主は補欠となった。 1998-1999シーズンから2001-2002シーズンまで高速バス 広島 1998-1999シーズン、グランプリシリーズスケートカナダで2位、NHK杯では3位に入賞。グランプリファイナルに初進出したが5位にとどまった。冬季アジア大会では3位に入賞。2季ぶりに出場した世界選手権では20位に終わった。同4月、早稲田大学教育学部社会科社会科学専修に自己推薦入学する。 1999-2000シーズン、全日本選手権では3位に入賞、四大陸選手権では日本人選手最高位の4位に入ったが、世界選手権代表の座は同大会5位ながらフリースケーティングの内容を評価された恩田美栄にさらわれた。ビジネスホテル大阪 2000-2001シーズン、全日本選手権で3季ぶり2度目の優勝を果たし、2季ぶりに世界選手権代表に選出される。四大陸選手権で初優勝を果たし、ISU国際大会において日本人選手として佐藤有香以来7季ぶりのチャンピオンとなった。世界選手権では7位に入賞した。高速バス 格安 ソルトレイクシティオリンピックを控えた2001-2002シーズン、村主がNHK杯で7位に終わる一方で、グランプリファイナル進出を決めた恩田美栄が五輪代表に内定。全日本選手権は、事実上残り1枠をかけた荒川静香との一騎打ちとなった。ショートプログラムで首位に立つと、最終滑走となったフリースケーティングでは苦手の3回転サルコウ、3回転ループも決め、そのまま優勝。ついに念願のオリンピック代表に選出された。迎えたソルトレイクシティオリンピック本番、ショートプログラムでは7位となって最終グループ入りを逃したうえ、フリースケーティングでもくじ引きで早い滑走順になってしまった(当時は旧採点だったため滑走順が早いと不利な傾向にあった)。しかし、その悪条件を跳ね返し、最終的には5位入賞と好成績を残した。長野で開催された世界選手権では、出場4回目にして初めて表彰台に上がり3位に入賞した。 2002-2003シーズンから2005-2006シーズンまでSEOとは 2002-2003シーズン、全日本選手権で3年連続4度目の優勝を飾った。冬季アジア大会では2位。2季ぶりに出場した四大陸選手権では2度目の優勝を果たした。また、この2大会を通じて荒川静香・中野友加里と共に日本人選手で表彰台を独占した。グランプリファイナルでは6位に終わったが、世界選手権では前季に続き3位に入賞、男子の本田武史と共に2季連続で日本人選手が銅メダルを獲得した。 2003-2004シーズン、NHK杯でグランプリシリーズ初優勝を遂げると、3度目の進出となったグランプリファイナルでは、ショートプログラム、フリースケーティング共に1位で日本人選手初制覇の快挙を成し遂げた。4連覇が期待された全日本選手権では2位、世界選手権では7位入賞にとどまった。 2004年4月にマンション販売大手のダイナシティと所属契約、ダイナシティ子会社のダイナミック・スポーツとマネージネント契約。5月にはダイナシティの援助を受けてシカゴに練習拠点を移し、コーチにオレグ・ワシリエフを迎える。しかし、指導が充分に受けられなかったため、12月に練習拠点を新横浜プリンスホテルスケートセンターに戻し、再び佐藤信夫コーチに師事することになった。 2004-2005シーズン、2季ぶりの四大陸選手権では、同大会最多優勝となる3度目の優勝を果たした。世界選手権では、予選Aグループで2位となり、ショートプログラムでは冒頭の3回転ルッツでの転倒が響いて10位と出遅れるも、フリースケーティングで追い上げて日本人選手トップの5位に入った。 2005年6月28日、パラオ ダイビング ダイナシティ社長だった中山諭が覚醒剤取締法違反で逮捕されて即日解任、村主側はダイナシティ側と協議し契約解除することになった。7月に担当エージェントが前年2月に設立していたマネージメント会社AKグローバルエージェントとマネージメント契約、10月にエイベックスと所属契約した。 トリノオリンピックを控えた2005-2006シーズン、開幕直前の2005年9月に以前から痛めていた右股関節の故障が悪化し、グランプリシリーズ出場さえ危ぶまれた。10月のスケートカナダでは、ショートプログラムは無難にまとめて2位となったものの、フリースケーティングでは全くジャンプが跳べず総合8位に沈み、五輪連続代表入りは絶望的と思われた。続くNHK杯のショートでも3回転フリップで転倒し6位スタート。しかし、フリースケーティング1位と追い上げ、総合2位に入って復活の兆しを見せた。そして、五輪最終選考会の全日本選手権ではミスのない演技でフリー1位となり、グランプリファイナルで優勝していた浅田真央を抑えて3年ぶり5度目の優勝。選考ポイント最下位から大逆転でトリノオリンピック出場を決めた。同時に、全日本選手権において10季連続でメダリストとなった。石垣島 ダイビング トリノオリンピック選手団結成にあたっては副将を務めた。競技ではほぼノーミスの演技を披露したものの、成績はショートプログラム、フリースケーティングともに荒川静香、サーシャ・コーエン、イリーナ・スルツカヤに次ぐ4番手で総合でも4位入賞。フリーの3回転フリップからのコンビネーションジャンプが2回転-2回転となった以外特に大きなミスはなかったが得点が伸びず、前回のソルトレイクシティオリンピックから順位を1つ上げたが、メダル獲得には至らなかった。夢であったオリンピックに2度出場したことからメディアでは競技引退も囁かれたが、「今回トリノで魔法をかけられた。次のバンクーバーまで解けないと思う」との独特の表現で現役続行を表明した。 世界選手権では、予選Aグループで1位となり、ショートプログラムではパーソナルベストを僅かに更新してサーシャ・コーエンに次ぐ2位スタート。フリースケーティングでもパーソナルベストに迫る演技をしたものの、村主の直前に滑走したアメリカの新鋭キミー・マイズナーが逆転優勝。結果、自己最高の2位に入賞し、世界選手権において日本人選手最多の3個目セブ ダイビング となるメダルを獲得。しかし、スルツカヤや荒川が不在の世界選手権で佐藤信夫コーチも「なかなかないチャンスで金メダルを獲らせてあげたかった」と語り、村主も「一番高いところに行きたかった。表彰台に多く乗っても、やはり色(が大事)だと思う。本当に思うようにいかないシーズンでした。人生は凄く難しいと思うようになった。今後はメダルの色にこだわりたい。失敗を恐れずにチャレンジしていきたい」とシーズンを締め括った。 2006-2007シーズンから現在まで 自ら「リセットの年」と語った2006-2007シーズン、村主は東京で開催される世界選手権を見据え、ショートプログラムにはボレロを、フリースケーティングには以前から暖めていたという“一大プロジェクト”、女性ヴォーカルを楽器の一つとして取り入れた曲のメドレーを使用。もしジャッジがヴォーカルを歌詞と判断すれば規定により減点されるが、このシーズン初戦となるスケートカナダ以降減点されたことはは一切なく、新たな試みは成功となった。10回目の出場となったNHK杯では浅田真央に次いで2大会連続2位となり、4度目のグランプリファイナル進出を決めた。しかし、ファイナルではジャンプにミスが出て4位にとどまった。宮古島 ダイビング 全日本選手権では、最終滑走のショートプログラムで3回転フリップが回転不足・両足着氷となってしまい5位と出遅れる。フリースケーティングでも同じミスを繰り返し、曲の終了に締めくくりの高速スピンが間に合わなくなってしまった。その結果、総合4位に終わり、世界選手権代表には選ばれなかった。冬季アジア大会では、フリースケーティングの中盤にジャンプミスを重ね、再び締めくくりの高速スピンを演技に入れられず、中野友加里に逆転優勝を許した。四大陸選手権では、ショートプログラムのジャンプで相次いで転倒し、12位と大きく出遅れてしまう。さらに転倒の際に臀部を強打、首もむち打ち状態となり、痛みがひかなかったためフリースケーティングを滑ることなく途中棄権を余儀なくされた。大阪ビジネスホテル 2007-2008シーズン、環境の変化を求め、7月に練習拠点をモスクワに移した。コーチも長年師事してきた佐藤信夫から、前季フリースケーティングの振り付けを手がけたアレクサンドル・ズーリンに変更し、イゴール・パシケビッチの指導の下、ジャンプのテクニックを変えてシーズンに臨む。グランプリシリーズ中国杯ではショートプログラムでジャンプのミスを連発して大きく出遅れたが、フリースケーティングで巻き返して4位となった。ロシア杯ではショートプログラムでシーズンベストを更新したものの5位に終わった。全日本選手権では、ショートプログラムで3位と好スタートを切ったものの、フリースケーティングでは3つの3回転ジャンプが2回転になってしまい、結果4位にとどまった。四大陸選手権の代表には選出されたが、目標にしてきた世界選手権出場権は得られなかった。四大陸選手権ではショートプログラムで大きく出遅れ、フリースケーティングではシーズンベストを僅かに更新したもののジャンプミスが続いて総合10位となり、一度も表彰台に上がることなくシーズンを終えた。ジャンプの不振から成績が低迷したシーズンとなったが、ジャンプ以外の要素では、トリノオリンピックでの敗因ともいえるレベルの取りこぼしはほとんどなく、ほぼ全ての要素でレベル4の評価を得るなど、その点では十分な成果の見られたシーズンだったともいえる。